お金と枷、お米と価値
お金というのは、生きている人間にだけ関係がある。死んだ人間には関係なく、いきている動物にも関係がない。
わたしはこれで食っているとか、それで食っていけるのかとか、食うという表現で仕事について語ることがあるが、食うのは食べ物であって、お金ではない。
お金そのものは、食えない。お米なら食える。
世の中の通貨を、お米にすればいいのではないか。
お金は人間がつくった。もともとは物々交換のための媒介として発明されたのだろうが、いまや、お金をお金で買ったり売ったり、なんかただの数字というか、なんというか、虚像というか、なんだかわからないものになってしまっている。
仮に、今日の今から、お金の制度を世界的に廃止ということにして、ただ数字だけにする、具体的に言うと、「はい、10000円ね。」「はい、5000円のおつりですね。」とか、実際はお金のやりとりをせずに口で言うだけ(具体的?)というのはどうだろうか。
何か問題があるだろうか。そのうち、口で言うのも必要なくなるのではないか。
空気はタダである。ぼくがずっと考えていたことを、今週、糸井さんが書いていたので、やばいと思ってあせって書いている。海も川も基本的にタダであるが、誰かが管理していたりすると、そこにはお金が必要になってくる。魚も自分で釣ったらタダだが、だれかが採ったのにはやはりお金がかかる。
土地に値段がつくというのはどういうことだろう。最初にここはおれのものだと言ったやつがいるのだろうか。よくわからない。
この地球上のものはすべて、自然のものである。自然のものは自然にあるのであって、お金とは関係ない。人間が勝手につくっているだけで、勝手に枷をはめているだけだ。わざわざ不自由な決まりをつくっているだけだ。お金だけに限らず。なになにしなければいけないとか。こうでなければいけないとか。常識とか。普通は、とか。
経済の発展のもとは、欲望の追求であり、便利さの追求、快適さの追求であろう。
そこそこ満たされてきた現在、さらに経済を発展させるには、ものすごい快楽をともなう娯楽とか、超画期的なアイデアつきの商品とか、そういうものの開発、流通が必須だろう。しかしそれも、もはや出つくしていると言ってもいいような。
「働く」「仕事する」というのは、どっかに勤めて給料をもらうとか、自分で何か仕入れてどっかに買ってもらってその差額を利益とするとか、普通そういうことをいう。
自分たちの今晩の食べ物を釣り竿をもって釣りにいくのは「仕事」というのか。
完全自給自足の農作業は、「仕事」というのか。
仕事というとかいわないとかいうことではなく、仕事でも仕事でなくてもいいではないか、というか、そういう意味では別に仕事する必要すらないのではないか。食えればいいんだろう。
もう一度書くが、いまのところ空気はタダである。
呼吸できなければたぶん5分も生きていられないだろう。
食べもの飲みものよりも大事な、空気がタダであることは、
ありがたいことなんだなあと、発見というか、再認識というか、した次第である。