マキタカオライフ

It's Life and Life Only

加減は無限

「わしのひるめし、弁当。」を、かれこれ10年以上も、つくり続けていて、そのおかずの中心となるのが、たまご焼きである。うめぼしは、ほぼ毎日登場するが、これはおかずというよりも、しろめしのほうにつく、という感じで、おかずという意味ではやはり、たまご焼きが中心である。
いままで、どんだけ焼いたんかといえば、そうとう焼いたといえるだろうが、いつも同じもの、同じ味にできているかというとそうではなく、毎回というか、いつも違う。
なにかを入れたり混ぜ込んだりすると、それは当然違うものになるが、たまごと醤油だけのプレーンたまご焼きについて、いつも違うということを言っている。
お店で出す、お客さんにお出しする、というものではそもそもないので、いつも同じ出来にしようとしていない。
つくる条件が安定していないということである。
その、変わる条件というのは、たまごそのものから始まり、溶き方、たまご焼き器(フライパン)のかたち、素材、いちどにつくる分量、醤油の種類、分量、油の種類、分量、油を入れるタイミング、温度、たまごを入れるタイミング、分量、油とかきまぜるかかきまぜないか、どのくらいで巻いていくか、ああ、ここまで買いて、すでにきりがない、省略する。最後の切りかたでも、食感は変わってくる。
たまご焼き器を火にかけて、ちょっと違う用事(やかんに水をいれるとか)をするだけで、条件は安定しない。同様にすべての条件は安定しない。
「加減は無限」というのは、たまご焼きのことを考えていて、ああこれは、コーヒーも同じだなと思って、ああこれは、髪型(ひげとかも含む)とかでも同じだなと、デザインとかでも音楽とかでも、たいがいのものにあてはまるなと、いうところから、ものごとは、ちいさないくつもの加減でできていて、そのバリエーションでいかようにもなり、それは無限にあるのだなと、しかも語呂がいいなあということで思いついた。
それで、やはりすばらしいできばえというものは、それらの加減の積み重ねというか掛け算というか組み合わせというかで、できているのだろうと。
そして、そういうのは、たまご焼きでいうと、この道具で、何分火にかけて、何グラムを何回、何秒どうしてこうして、とかではなく、そこの適度な具合を感じることというか、適当具合といったらいいのか、そういうことなのだろうと。

だから、伝統を受け継いで、みたいな世界では、徒弟制度のようなもの、寝起き、食事その他をともにして、ノウハウというよりもっと深いところの感覚、感性を同調させるというようなことが必要なのかと。無意識レベルでの同調というのか。

たまご焼きについては、つい最近でも新しく発見したこともある。日々工夫、というか試しているので、またこんど、くどくどと書いてみようと思っている。