マキタカオライフ

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勉強の意義

ここでいう勉強とは、学校の勉強、小学校、中学校、高校までの勉強のことである。
なんのために勉強するのか、あるいはしなければならないのか。

国家が、国民の育成のために義務としてまた国民の権利として、制定され現在にいたっている今の教育制度のなかには、大きく分けてふたつの意味合いがあるように思う。
ひとつは、「読み書きそろばん」といわれていたような、国語力と計算を中心にして、コミュニケーション能力や思考力を身につけ、一般社会に対応、適応するための、基礎的な勉強。
もうひとつは、基礎的ではない応用的な勉強、ないものを作り出す、未だわかっていないことをわかろうとする、できなかったことをというような、研究、開発にむけての勉強。

人間には個人差があり、適正があり、得手不得手があり、向き不向きがあるので、ふたつめの勉強については、全員がやる必要はない。やるひとだけがやればいい。
ひとつめの勉強は、できたら全員がやるべきである。やっとかないとあとで困るから。本人もまわりも。

そもそもは義務教育というのは、そのひとつめの勉強を国民全員にやってもらうという意図からのものであろう。
そして大学という学校は、ふたつめの研究、開発をやってもらって、国家の、ひいては人類の役に立つ人材を、という意図からのものである。

で、高校はいったいなんだというと、おそらく大学で研究、開発をするための予備知識をつけるためのもの、ということだろう。
なぜそういう勉強が必要かというと、新しいものを研究、開発するためには、いままでに先人が既にやっているもの、既にわかっていて結果が出ているものを知っておかないと、また同じことをいちから研究してしまったり、既にあるものをいちから開発してしまって、二度手間になってしまったりするからである。
そのために、むずかしい数学の問題や、歴史の細かいことや、いろんなことを知識として知っておかないといけないからである。

こういうのはどうだろう。
小学校、中学校を義務教育とし、高校を大学準備のための教育機関とし、大学では研究とか開発とかだけをやる。
いい大学、とかいい学校という定義もなくなり、どこどこ卒業というようないわゆる学歴というのも意味を失う。
学歴というよりも成績、そのひとのそのひととなり。
したがって、高校受験というのはなくなる。
大学受験というのもなくなる。
専門知識、技能を身につけるための専門学校が多様化する。

表題の勉強の意義、については、義務教育については、そういうことで、高校についても、そういうことだ。
こんな勉強、なんの意味があんのん、とかいうのは、意味があるひとには意味があるし、そうでないひとには意味がない、ということだ。
というか、そのひとにとって意味のある勉強と、意味があるとは言えない勉強がある。
それは、そのひと自身が、自分で決めることである。
意味のないと思える勉強をするかしないか、も、自分で決めることである。