書き言葉と話し言葉
書き言葉と話し言葉は、そもそもが違うもの、別のものかもしれないと思った。
別のものが、リンクしているだけ。
基本、書き言葉は、読む、と書くのどちらかで、話し言葉は、話す、と聴くのどちらかである。
書き言葉を声に出して読む、とか、話し言葉を文字にして書く、とかは、それぞれのリンクである。
書き言葉を聴くには、声に出して読んだものを聴くしかない。
話し言葉を読むには、文字にして書いたものを読むしかない。
思考および行動の傾向として、書き言葉タイプのひとと、話し言葉タイプのひととに、分類できるかもしれない。
と、ここまで書いて、検索してみたら、すでにタイプの分類、特徴について書いているサイトがあった。
http://saitoumikako.com/blog/think/WriteTalk.html
書くと話す(読むと聴くも同様)では、アウトプット(インプット)の回路自体が違う、とか、そのことによって、理解の度合いが違う、とかいうこともあるかもしれないなとも思った。
手と口の違い、視覚と聴覚の違い、ということなのか。
AT BUDOKAN
思いをはせる、というか、思いが飛ぶ、というか、ほかのことをいろいろ考えてしまう、とか、なにか思いついたりする、とか、そういうことがディランを聴いているとよくあり、こういうのを引き起こすものがまさに芸術なのかと思ったりし、ノーベル賞というのもそういうことかなと思ったりする。
まえにも芸術とはなにかみたいなことを書いたような気もするが、作品に接するたびになにか感じることができる、なにか発見することもあるというのは、楽しいことであるし、充実した気分でもある。
ずいぶんまえに滋賀の美術館で見た、パフォーマンスアートというものも、そのときはもうなんだか笑けてしまう感じのなんじゃこれはという驚きと、耐えきれぬ退屈さと、みたいな感じであったが、いまでもちょくちょく思い出して、いまのこれはあれに似ているというふうに感じることがあり、あれもやはり芸術と言っていいのだなと納得したりする。
そのかた(アーチスト)のお名前すら思い出せないのであるが。
とりあえず、今日は書いた。続くかどうかはわからない。
きっちりやらないと気が済まない、ということはぜんぜんなくて、だいたいがかなりてきとうなのだが、それでもそこそこ完成形にならないといけないという思い込みなのかわからないが、なにかに取りかかるときに、どうも腰が重い。
やるまえからいろいろ考えてしまってというか、そのめんどくささに負けてしまうというか、いかにも、腰が重すぎる。
もう、これではいかんと、そろそろ脱却しなければと、まあとにかくなんか、なんでもいいから、なんでもいいからということではないけれども、とりあえず、やってみることにすると、いろいろと。
決心、みたいに書いてみたけれども、おれの決心ほどあてにならないことは、おれが一番知っている。
おれ、と書いてみたけれど、おれでもわしでもぼくでもなんでもよい。
なんでもよいのだ。