マキタカオライフ

It's Life and Life Only

コミュニケーション

いままでの話に補足する。
いわゆる「コミュニケーション」というのは、昨今では、主に言葉のやりとりによるものとされている。
しかし、言葉のやりとりの手前に、実際に顔をあわす、会って話す、というのがある。
表情を互いに見ること、実際の声を聞くこと。触れ合う、というのもある。
さらにそれらの手前に、もっと根元的、直感的なコミュニケーションとして、同じ空間にいる、というのがある。
ただそれだけ。会話なし。
言葉以前の、感情のコミュニケーション。
感情の共有。一体化。

身体からあふれでる感情、と言うとわかりやすいかも。
おそらく、頭で思っていること、言葉として思っていることは、言葉をやりとりしないと伝わらない。
しかし、言葉以前の意識、感情、感覚は、その場に居合わせるだけで、伝わる。感じる。

たとえば、家族でひとり猛烈に怒っているひとがいるとして、本人がどれだけ表に出さないようにしていても、ほかのひとはなんとなく、あるいは強烈にそのひとの怒りを感知して、居心地の悪い感じがしたり、ビクビクしたり、さらには同調して同じようにイライラしてきたりするものである。

最近普通に使われる表現で、空気を読む、というのがある。
まわりに会わせる、とか、ひとりはみ出ないようにする、とか、いわゆる社会的な協調性というような意味で使われる。
しかしただ、表面的な意味ではなくて、実際に、「空気」を読む、「空気」を感じるということが、実際にある、というか、もともと動物には備わっている。もちろん人間にも。

人間は言葉で形成されている。
言葉が人間の証である。
人間は言葉である。
と言ってもいいだろう。
それゆえに、言葉の部分が成熟しすぎたために、言葉だけを盲信してしまっているために、もともと在る、言葉以前のものを概念化できなくなってしまった。
言葉以前のものを言葉で表現できないからである。
言葉にできないもの、概念化できないものは、存在しないということになる。
非科学的だということになる。

しかしそれでも、本能的にはそのことを、ほんとうは知っている。
知っていることを知らないし、認めようとしない。
それでもほんとうは、知っているのである。

スポーツの応援、野球とかサッカーとかで考えるとわかりやすい。
勝つにこしたことはないが、負けることもある。
それでも応援する、試合場に足をはこぶ。
感情の共有。一体感を得る快感、興奮。

お祭りとかもそういうことだろう。
音楽のライブとかも。

さらに言えば、戦争も、そういうことかもしれない。

言葉によって言葉を突き詰めることで、言葉以前のところ、意識の共有部分を制御できるかもしれない。
さらには集合的無意識の部分まで、影響を与えることができるかもしれない。
というか、言葉で考えるしかないような気がする。人間の宿命として。

続く。

次回は、議論は、そこで使われるそれぞれの言葉の概念をまず、だいたい統一させることから始める、ということについて。