マキタカオライフ

It's Life and Life Only

意識のあり場所

ということで、たとえばぼくの意識は、いちおうぼくの脳にあるのだが、そこから身体全体そして空間へとボーダレスに広がっている、と考える。
魚とか、鳥とか、ほかの動物たちにはそれがあたりまえで、とくにそれについて意識することもなく暮らしている。
生まれてきてそして死んでいく。
魚の群れがまるでひとつの身体のようにいっせいに向きをかえたり、鮭が毎年川に帰ってきて産卵したり、つばめが毎年巣をつくったりするのも、そういう、意識の広がり、意識の共有、意識の一体化というふうに考えれば、なんとなくわかる。
仲間と、空間と、地球と、そして宇宙と一体化しているので、自然の動きに対応できるのだろう。
感じて反応する。言葉ではなく、概念ではなく。

人間も他の動物と同様に元来そういうふうなはずだが、現代の一般的な概念では、心とか意識とかいうものは、人間個々にある、脳にあるということになっている。ぼくはぼくであり、きみはきみであり、個々の区別というのが明確になっている。そしてぼくの身体はぼくのもの、もっと言えばぼくの命はぼくのものというようになっている。

前にも書いたが、これは人間が言葉を持ち、言語をあやつり、言葉による概念のなかで生きているからというのが大きいと思う。
まず最初に言葉があった、というフレーズが、新約聖書にある。
人間という生きものが最初にこの世に出てきたのは、それは言葉を理解し言葉をつくりあげるポテンシャルを持った脳を持つ動物の発生ということだったんだろう。

言葉を理解することができ、言葉をつくりあげていくことができ、言葉によって様々なことを概念化することができ、概念化によって言葉だけではなく形あるものや、しくみやルールなど、いろんなものをつくり出すことができる。
ものごとを記憶し、思考することができる。
クリエイトすることができる。
他の動物とは違う特性、言葉をあやつるということである。

人間は、あらゆる思いつくことに名前をつける。名前とつけて区別し、概念化し、理解する。
名前をつけただけで、名前を聞いただけで理解したつもりになっていることもある。
当然、人間ひとりひとりにも名前をつける。
名前があることで、個とか自分とか他人とかの概念が生まれ、自分の感じる感覚(五感)は自分だけのものであると判断し、考えることがらも自分の頭(脳)のなかで考えているということを疑うことはない。

人間の数だけ、人間の身体はある。
しかし、人間の意識、心というのは、単に足し算で数えるようなものではないのではないかと思う。
10人いれば、10個ある。かつ、ひとつでもある、とか。
意識のサイズというものがあるとしたら、それはひとりの人間サイズだけでなく、宇宙サイズのものがあるとか、ミクロサイズであったりとか。
それもまたひとつでもある、とか。

次回から、意識、心、身体、命、魂などの定義を整理し、その関係性、成り立ち、などを考えていきたい。