言葉と存在
ひさしぶりに、いままで書いたこのブログを読み返してみたが、何回もおんなじようなことを書いている。さらにこれからも同じようなことを書こうとしていることに気がついて、なんかぜんぜん進歩してへんやん、と認識したというか、書いたことをわすれてるやん。
で、前にもかいたが、日本語での一人称の表現がたくさんあるという話。二人称も。
ひとりのひとのなかに、表現の数だけ人格がある、それらは自分という点ではおなじだが、使い方、性格、シチュエーション、においてそれぞれ違う。これは、日本語を使うひとたち、日本人に特有のパーソナリティ、メンタリティだろう。
そのつど、演じ分けるというか、対応するというか。
売り手と買い手の関係とか、先生と生徒の関係とか、部下と上司の関係とか、おそらく、日本語以外の言語のひとたちには、完全な理解はできないだろう。ぼくというときと、オレというときとの違いは、その使い分けのニュアンスは使い分けてみないとわからない。
翻訳の限界というようなことでも、前に書いたが、どう訳すかというよりも、その前にどう違うかということを挙げてからいろいろ考えていったほうがいいだろう。
言葉になっていることだけが存在するというか、言葉に表現できないもの(されていないもの)はその存在を認識できないというか。あとは、名前がある、ないというのも同じような意味合いか。
人間以外の動物には、自分という概念もないのではないか。
自分と他人の区別も、大自然と自分との区別もないのではないか。
自分はというか、その概念がなければ自分とも思わないだろうが、大自然と一体化しているのではないか。だから、天気や地震なども先にわかるのではないか。
人間はなまじっか言葉をあやつり、いちいち意味付け、区別するから、自分自身も大自然と分離してしまったのではないか。
続きます。