マキタカオライフ

It's Life and Life Only

勝ちも負けも、無い。

だいたいが、こうやって書こうとするとなにを書いたらいいかわからなくなる、というか、いくつか書こうと思っていたことがあったのに、すこしも思い出せない、というか思い出そうとしていない。
思いついたときにメモったりしたこともあったが、いざ書こうとすると思い出せない、これはひょっとして、おそらく書きたくないのではないかとまで思う。
などとこんなふうに文字を入力していても、まあしないよりもましかとも思うが、いったいなにがなによりもましなのかもわからない。
パソコンに向かい、キーを打つというこの作業が、なんかこう、そそらないのかもしれない。
だいたい、こんな文章をアップしても、誰も、自分自身も、おもしろくもなんともない。
こんなものは文章ですら、ない。
いま、ない、と書いて、まず無いから始めよう、というのを書いていこうと以前考えたことが、いま浮かんだ。

有ると普通思い込んでいるもの、概念、習慣、など、それを、無い、と考えてみることで、既存の自分の思い込みがすこし変わり、こだわりや決めつけから解放されるのではないかという主旨である。

ここまで書いてみて、キーを打って入力の作業も、準備運動をしたほうがいいのかという気もしてきた。
こう、あんまり考えないで書く、というか、文章ですらない文章を書くというくらいの気安さで書くというか。

だいたいが、ちゃんとした文を書いたつもりが、それがちゃんとしていると思っているのは俺だけかもしれないし、ひとに伝わっているかもそもそも疑問であるし、読んでいるひとがいるのかどうかもこれまた疑問であるし。

勝ちも負けも無い。
勝つの反対は負けるというのは、一般的な常識である。
しかし、勝つとか負けるというのは、人間が決めた、ある枠組み(時間、範囲、数字など)のなかのことに限られる。
ほんとうは、というか自然界には、勝ち負けというのは、無い。
例をあげて説明すると、いや、長くなるので今日はしない。
ということで、だから、勝った負けた、で一喜一憂(とくに一憂)しなくてよい。

あまり時間をかけるとか、力をいれすぎるとかすると、ストレスになる。
ストレスと感じない程度のことを習慣化していくほうが、これからはいいのかなあと思っている。

ちょっとまえに、書き言葉と話し言葉というのを書いたが、書き言葉が楽譜、話し言葉が音楽(実際に鳴っている)と考えると、違いがわかるかな、違うかもしれないということの意味がわかるかな、といま思った。