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マキタカオ ライフ

日々の考察と記録 It's Life, And Life Only

パワーゲームと反対運動について

前にも書いたと思うが、人間関係において、自分が対象となる相手より優位にあるかどうか、だけを重要視するひとが、わりあいたくさんいる、というかけっこうたくさんいる。
その人間関係が良好であるか否かということよりも、どちらが強いかということのほうを重くとらえる。
初対面の出会いからその後の関係構築、また旧知の関係においても、常に意識をそこに置き、そのための駆け引き、努力、をおこたらない。
このような、人間関係の主導権、権力をめぐる駆け引きのことに、パワーゲームという呼び名がついていることを最近知った。
パワーゲームに明け暮れているひとは、パワー至上主義者ということになる。
人間関係の上下に白黒をつけるので、上の者も下の者もそのようにふるまうことが基本である。
すなわち、上の者には媚び、下の者には威張る。
言い換えると、上の者は威張るものであるし、下の者は媚びてこないといけない。
したがって、その主義を同じくするひとたちは、自ずと集うことになる。

逆に、パワーゲームを好まないひとたちがいる。
人間関係は、基本的に対等であるべきだと思っている。
威張るひとも、媚びるひとも、そして威張ることも媚びることもあまり好きではない。
それよりも、相手に好かれること、または嫌われないことを大事にする。
ニュートラル至上主義と名付けてみる。
ニュートラル至上主義者たちは、たぶんあまり集うことを好まない。
人間関係がある意味、ドライである。
ニュートラル至上主義者は、人間関係に常に対等を求める。
パワー至上主義者に対しても、対等を求める。
これはこれで別の意味で、パワーゲームと言ってもいい。

複数の人間の集まるところには、必ずパワーゲームが存在する。
その規模が大きくなるほど、パワー至上主義者率が高くなる。
なぜなら、組織というものは、決定、伝達、執行などの業務において上下関係なしでは成り立たないからだ。
ニュートラル至上主義者は、少数派である。
大会社、そして国家に至っては、パワー至上主義者たちだけの集まりになる。
パワー至上主義者によって作られ、決定され、運営される。

そして反対運動。
ここでは、国がやっていることについての反対運動ということで、例を挙げると原発とかオスプレイとかへの反対運動のことをいう。
反対運動というのは、国家(パワー至上主義)に対して、反対することで、反対するということ自体が、パワーであり、パワーにパワーで返すということになる。
結論から言うと、パワーにパワーでは勝てない。
パワー至上主義者たちにとって、そういうのはお手のものである。
彼らは反対運動そのものもおそらく、織り込み済みだ。
パワー至上主義の土俵に上がってもしょうがない。

反対するのではなく、質問するとか。
なんでそうするのか。
提案するとか。
代わりにこうしたらどうかとか。

パワー至上主義とニュートラル至上主義の融合というか、相互理解というか、そういうことがまず、個人レベルから、意識のレベルから、できるようになれば、国や世界全体も、すこしはましになるような気がする。

次回は、ものごとの発展は「増えること」という思い込み、という題で。