マキタカオライフ

It's Life and Life Only

言葉の呪縛 追記

言葉が人間個人、個々の人間を縛っていることについて前回書いた。
言葉が人間一般、人間そのものを縛っていることについて。
前にも書いたことの繰り返しになるようだがあらためて考えてみる。

ものごとに名前をつけること、言葉で表現することによって、その概念がきまる。
定義され、分類される。
名前をつけられたものごとは、その名前によって区別される。
名前が違えば、別のものごとということになる。
言葉は分類である、言葉は区別である、という言い方もできるかも。

分類、区別というのは、それぞれの境界線、ボーダーなしには成り立たない。
言葉は境界線を作る、という言い方もできる。

ここからこっちはオレのとこで、ここから向こうはオマエのとこということである。
国とか県とか市とか、町とか家とか。
あと、オレとかオマエとか。
身体、心、オレ、オマエ、などは、その概念からいうと、身体の表面の皮膚をボーダーとし、内側はオレで、オレのモノということになっている。
オレの身体も、オレの心も、そしてオレの命も、オレのモノということになる。

オレという言葉、オレという概念がなければ、オレもオマエもない、ということで、地球上の生きものの中で人間だけが、個人個人を区別し、「オレ」というのを絶対的な単位と認識している。

認識している単位、境界線などをいちどはずしてみると考える。
魚一匹を一単位と捉えるのと同時に、その群れも一単位と捉える、そうすると魚の群れの統制のとれた動きに説明がつく。
ひとりの人間を一単位と捉えるのと同時に、その人間細胞のひとつひとつも一単位であると考えると、生きているうちは動き続ける心臓、不随意筋の動きなどなど、あらゆる人間の体内の不思議、命の不思議についても説明がつくというか、なんとなく理解できる。
人間だけでなく、動物も、植物も、ひいては鉱物、大地、空、地球、宇宙なども。
大が小を含み、小が大を形成する。あらゆるサイズがあらゆるサイズを含んでいる。含み合っている。
内側が外側になり、表が裏になり、みたいな。

というわけで、人間は、言葉によって人間たりうるが、言葉によって縛られているということができる。
人間は言葉でできている、ともいえる。

ライフラインといわれる、水道、電気、ガス、通信手段、交通手段など、人間特有のいわゆる文明も、便利であるがゆえに、発達すればするほど依存し、結果的に縛られているのと同じことかもしれない。

ライフラインをあたりまえのことのように捉えていると、災害のときにただ慌てるしかないということになる。
ライフラインに縛られているということを自覚しているだけで、どんなときも落ち着いていられるかもしれない。
同じように、言葉に縛られているということをなんとなくでも理解しているだけで、常日頃いろいろと考えることもできるだろうし、俯瞰的な捉え方もできるかもしれない。言葉を大事に使うこともできるような気もする。

そして次回の予定は、喜怒哀楽の原因、素、それはある現象によるものかそれともオレのなかで沸き起こっているものなのかということについて。