マキタカオライフ

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「神様」について

古来より、八百万の神という概念、考え方、認識がある。
おそらく日本国土における、そして日本語での、固有のもの。
たとえば、火の神様とかかまどの神様とか、山の神様とか森の神様とか、海の神様とか川の神様とか。
あらゆるもの、あらゆることに、神様が宿っているという考え方。
粗末に扱うと、乱暴に扱うと、バチが当たるという考え方。
何事にも、畏敬、畏怖の念を常に持ちながら事に当たるという、謙虚な生き方。
この場合の神様の概念は、特定のひとつ(ひとり)の形ある神様というのではなく、もっと漠然とした、形の定まらない、「自然の意思」という感じのものだろう。
太陽、地面、山、川、海、空、水、など、偉大な自然を敬い、畏れ、祈り、感謝するということだろう。

そういうことなら、「神を信じる」というのは、概念としては具体的になってくる。
そして、わざわざ、信じる、ということではなく、そういう神々は、「存在として、ある」と言える。

もともとは、そういうことだったんじゃないかと思う。古今東西
ただ、「自然の意思」というのを、ひとつ(ひとり)が司っていると考えることもできる。
ひとつとか複数とか、八百万とかいうカウントができるものでもないからだ。
そこで、ひとつ(ひとり)と考えたときに、便宜上呼び名がつき、名前が決められる。

ゴッドはゴッドで、アラーはアラーで、日本語でいうところの「神様」のニュアンスとだいぶ違うと思う。
まずそこに、一神教多神教との、「神」の定義のずれがある。

以前、神話と歴史、みたいなことを書いた。
ぼくは、神話も歴史書も、本当に起こったことですかというレベルでは、同じようなものだと思っている。
片方が荒唐無稽の作り話で、片方が本当のことを記したものという、その記述や伝承においてわざわざ区別したとは思えないからだ。
わかりやすくいうと、神話のお話は、だいたい本当の起こったことだろうと思うし、現在周知である歴史一般も、同じようにだいたい本当に起こったことだろうということである。補足すると、神話は、けっこう本当に起こったことのお話で、歴史一般は、だいたいでしか本当のことではないだろうということである。

聖書とか日本書紀には、現代では考えられないようなことが書いてある。
現代では考えられなくても、当時はあり得たのかもしれない。
何百年とか何千年とか前のことである。そんな前も、現在も、様々な自然環境がまったく変わっていないと言い切ることはできない。

現代に、ノーベル賞をとる人のように、すごい研究、発見、その成果を出す人たちがいるように、その昔に神がかり的なパワーをもつ人たちがいたのかもしれない。
神の言葉をもつ人間、神の仕業を行う人間。
ジーザス、ムハンマド、釈迦、そして空海親鸞などなど。
書物を編纂し、社を建て、像をこしらえ、などして、どんどんと枝分かれし広がり、そして教義の違いとやらで対立したりする。
ここにも「神」の定義のずれがある。

Natureとか、自然、とかそういうことにしたらどうかと思う。
世界共通で。
それか、太陽で。
世界中、太陽は共通のものなので。
太陽信仰。原初的、プリミティブ。いいと思うけど。
ただ、言語によって呼び名が変わるとそれでまた、対立の元になったりするのかな。
何時に何回どうする、とかの作法でもめたりするのかな。

ということで、次回は、魂と霊魂、とかについて。