マキタカオライフ

It's Life and Life Only

会話と、言葉の概念

前回の続きで、議論とまではいかなくても、普通の会話ででも。
なんとかが、どうである、というような話をふたりでしているとして、その話が全然かみ合っていないということがよくある。
そのかみ合わない理由の多くは、最初の「なんとか」、とあとの「どう」、のどちらか、あるいは両方の、両者が持つその言葉の概念が少しあるいは大きく違っているからということだと思う。

前回までの話の内容と関連する例をあげる。
「神を信じる」というのが例としてもわかりやすい。
「神様って、(あなたは)信じてる?」
「えー、全然信じてない、無宗教。」
みたいな会話があるとして、というかよくあると思うが、ここでは、「神」と「信じる」というふたつ。
会話の前にそれぞれの概念を、話者どうしが確認しておかないと、会話にならない。
しかし、実際、それらの概念の確認は、ほとんどされていない。
ほんとによくあることで、神は存在するか、とか、死後の霊魂は、とか、平和は、とか、いじめは、とか。
あなたの言う「神」ってどういうことかもっと説明して、とか、「平和」っていうのはだれがどういう状態で、というかそもそも状態のこと、とか、「いじめ」ってどういうことを言っているの、とかそういうことをいちいち聞いているとたぶん、ウザがられてしまう。

そこらへんの会話も、国際間の議論も、基本となる言葉の概念の共有なしで行われている。
最近、とくにその傾向が強いように思う。
現代社会では、言葉のやりとりがコミュニケーションの大部分を占めている。
言葉のやりとりをもっと深めないと、そこで違和感や不快感を感じ、言葉以前の意識部分、さらには、集合的無意識部分までに浸透していくことになる。
おそらく、意識、無意識、集合的無意識は、互いに連携、関係している。影響しあっている。
意識が無意識に作用し、無意識が集合的無意識に影響を与える。
逆に、集合的無意識が無意識に、さらに意識部分に作用する。
言葉を使う以上は、言葉を大切にしなければいけない。
人間は、言葉でできている。

で、「神」を「信じる」か。
一般的には、「神」というのは、擬人化された神という存在、または天にいる(天というのは空というか、はるか上のほうというような感じか)特別な意識、いずれにしても、そういう「存在」ということだろう。
「信じる」というのは、あるかないかよくわからないものを、あると思い込む、というか、あるほうに、乗る、ということだろう。
明らかに一般的に、ある、ものであれば、信じるもなにもないからである。
ぼくは、「神」とはそういうものとは思っていないので、また、「信じる」というのも軽々しく使いたくないので、その質問をもしされても、「うーん、ちょっとすぐに答えられへんけど、それについて話すと一時間位かかるなー」と言ってしまうか、「よう分かりませんわ」とか言ってお茶を濁すかして、ウザがられるかまたは、場をしらけさすかするだろう。

ということでさらに続く。
神とは、とか、魂とは、とかに行ってみたいと思う。
はっきりした概念なしに使われている言葉に焦点をあてる。