マキタカオライフ

It's Life and Life Only

言葉と意識

ぼくの浅い知識によると。
フロイトが、人間が、意識できている意識(顕在意識)のほかに、意識できていない意識があると考え、それを潜在意識と名付けた。
ユングが、顕在意識(意識)、潜在意識(無意識)のさらに奥に、人間が、人類が共有している意識があると考え、それを集合的無意識と名付けた。
ということらしい。

ユングの説を題材にして進める。
意識という部分は、普段意識している意識で、その意識は、「言葉」によるものである。
「考える」という作業は、「言葉」が必ず介在している。
言葉で考え、言葉で概念化し、言葉で記憶する。

無意識という部分は、普段意識できない意識で、その意識は、「感覚」によるもので、
「感じる」ことは、言葉を介在する以前の感覚、まさに「感覚」である。
直後に言葉化することが多く、言葉化することによって、その感覚は意識部分に移動する。

集合的無意識という部分は、もはや部分ともいえず、空間へとボーダレスに無限に広がる。
他者と共有、同期する。対人間に限らず、他の動物、植物、さらに自然全体と共有、一体化する。

三つの意識は、呼び方こそ別名であるが、その境界はあいまいである。
地上から宇宙へ、という感じである。
三つの意識は、互いに影響、干渉、制御しあっている。
強い意識は、無意識部分に影響する、無意識が意識部分を制御する、ということが常にある。

言葉、言語をあやつるポテンシャル、キャバシティーを持った脳、身体が、現代人の、ひいては現代文明の特徴である。
言葉をつくり出し、記憶し、共有し、使いこなし、さらにつくり出すというサイクルは、同時に言葉による概念のクリエイト、言葉を基にした文明のクリエイトであるといえる。
石器から土器、車輪からエンジン、半導体からコンピューター、ポケベルからスマートフォンまで、人間の想像、仮定、実験などのくりかえしから、進歩、発展してきた。

現代社会、現代文明は、言葉の進歩による「意識」部分の進歩、進化と言えるだろう。
しかし科学の進歩は、既存の方法論に基づく科学以外のものや考え方を認めない。
「意識」部分だけを盲信していると言うこともできる。

意識部分は、言葉によって作られる。
いかようにでも、作られる。
言葉の概念が狭く限定的であると、意識部分は凝り固まったものになる。
言葉の概念が広く流動的であると、意識部分は、柔軟性をもったものになる。

そして無意識部分は、その人の身体の内部だけにとどまらず、外側に広がりを持つので、言葉を介さずとも、感じ合うことができる。
その無意識部分は、その人の意識部分と影響し合っている。
言葉でどう表現しようと、言葉を介さずに「感じる」ことのほうが、ダイレクトで、クイックリーで、おそらくほぼ間違いない。
「本音」と言ってもいい。
空間を経由。第一印象。勘。好き嫌い。喜怒哀楽。

そして集合的無意識部分は、言葉のない、そして身体的な感覚をも超えた感覚(超感覚とでもいうか)。
啓示。ひらめき。宿命。既に知っている感じ。DNAの記憶。

現代人は、考えるというとき、言葉で考えることしかできない。
ブルースリーの名言、「Don't Think, Feel !」というのは、シンブルで深い言葉なのだが、これも言葉なのであって、いったん言語化しないと、「感じる」ことを言葉なしで、と認識することができない。
言葉を追求することによって、無意識部分、集合的無意識部分の追求につながっていく。

また続く。
次回、もうすこし、追求する。例を挙げたりして。