マキタカオライフ

It's Life and Life Only

論理的、科学的

近年のというか近代のというか現代の社会は、科学的であるかどうか、仮説、検証、実験、証明、試験、実践、というような流れで発達してきた、と言っていいと思う。
その、科学的、というのは、計算によって証明できるとか、実験によっておおよそ確定できるとかそういうことが、いま現在の時点でほぼ疑いないということが、学問、研究の権威によって認定されるような、ということである。
そしてそのことが、メディアで発表されると、そのことについてよく知らない我々も、なんとなくそそれを科学的だと認識し、疑いをもたない。

最近、いろいろないわゆる科学的なもの、に対して限界を感じることが多い。
限界というのは、科学といっても、しょせん人間が分かったことしか分かっていない、ということ。
あと、分かったことをつぎつぎと実践するのに精一杯で、その先のことはこの先のこと、というか、分かったことを実践するのが最先端だとする人間の宿命みたいなもの、というか。

そういうのが発展するにしたがい、その発展のサイクルというかスピードがどんどん早くなり、一気に行き着くところまでいく寸前、みたいになっている、というかもうすでに行き着いてしまったのか。

論理と科学はそもそも並列であり、交互に干渉しあい、常にお互いを損なわないというふうにあるべきだろうが、論理が、論理というものが、軽んじられているというか、忘れられてしまっているとか、そんな気がする。
昨今の社会問題のいろいろは、論理が不足、欠如しているということを象徴しているような気がする。
こうだから、こうである、と、簡単に言ってしまうことは、文字通り簡単である。
しかし、もうちょっと掘り下げて、先のこう、と後のこうのあいだにもうちょっと論理的なものを入れてみるというか、合点のいくというか、腑に落ちるというか、そういうとこまで詰めてみるというか。
その、合点のいく感覚、腑に落ちる感覚、直感から考察、確信、そしてそれが共有できるものかどうか。普遍的なものかどうか。汎用的なものかどうか。

論理的に腑に落ちるということが、科学的なことよりも優先されるか、せめて同等に扱われるか、するようになればいいなと思う。
それぞれが、それぞれの納得を大事にする社会、というか世の中というか。