勝ち負けとプロレス
以前、相撲のルールという題で、スポーツ(競技)の定義とは、みたいなことを書いたが、ここで、とりあえず、運動というのを、体を動かすこと、競技というのを、勝敗(勝ち負け)を競う運動ということにして話を進める。
競技には、それぞれルールというものがあり、そのルール内で、速さや距離を競ったり、点を取り合ったり、あとは、体そのものの倒し合いというのもある。
速さや距離を競う競技は、競う相手との身体的な接触はあまりないので、純粋にフィジカルの能力を競う場合がほとんどだが、同時にスタートして同じコースを競う場合は、身体的接触も含め、その他駆け引きというのもある。
点を取り合う競技には、それぞれ様々な種類の点の計上の仕方があって、いろいろややこしいが、おそらくすべての競技には審判というのがいて、その得点がルール内でなされたものかどうかの判断をする。
また、得点を審査員というひとが決める競技も多い。
ルール内であれば、その勝ち負けは絶対である。ルール内であれば、なにをしようが、勝てばよいということである。
前置きが長いが、基本的に競技というものは、競う相手との勝ち負けを決めるものである。
しかし、プロレスは、相手との勝ち負けを決めるものではない。
巡業に出て、毎日のように戦う相手は、同じ商売の仲間である。敵ではない。
ルール内で、勝てばいいというものではない。というか、そのルールは、きわめてアバウトなものである。
プロレスにもいろいろあるので、プロレスとは、と言い切るのもどうかなと思うが、ここでは、昔からずっとやっているスタイルのプロレスということで進める。
それでは、プロレスとはいったいなんだろうか。
運動ではあるが、競技ではない。
かといって、演劇かといえば、そうとも言い切れない。
音楽のコンサートのようなものでもあるが、いずれにしても、完成された状態での芸、作品を観客に披露するものではない。
いちばん近いのが、ジャズやブルースのジャムセッションであろう。
おおまかな定型におおまかに従って、せーので演奏する。
アドリブ。
なにができるか、どこまでできるか、相手はどうか、耐えられるか。
協調。
調和、不調和。
緊張、弛緩。
一体感、スウィング。
形としての勝ち負けがあって(ないときもある)、試合は終わるが、その勝ち負けは戦っている相手とのものというよりも、むしろ対観客であり、もっといえば、対自分自身かもしれない。
プロレスというジャンルの芸能である。
競技ではない、一ジャンルのスポーツである。
プロレスを、競技としてとらえて、芝居だ、八百長だと安易に決めつけるのは野暮である。
トップレベルの「いい試合」のためには、おそらく、かなりレベルの高いいろんな要素が必要とされる。
あらゆる要素、知性、肉体、運動能力、アピール能力、声、表情、技、駆け引き、など、あと、観客も含めて。
アントニオ猪木がかつて、キングオブスポーツと銘打ったが、まさにそういうことかと、いまは思う。
当時は、なんか言い過ぎちゃうの、という感じがしていたが。
いまは、プロレスは前ほど人気がないかもしれないが、これは、レクリエーション、娯楽の多様化によるものでもあり、いちがいに、プロレスは人気がない、とはいえない。現在もいくつもの団体が続いていることから、需要はそこそこあるということはいえるだろう。
で、競技というのは、ルールがあるなかでの勝ち負け、これは、学校の勉強みたいなものである。
で、プロレスというのは、ルールがない(あるけどないようなもの)なかでの勝ち負け(勝ち負けの定義すら曖昧)、これはまさしく、社会に出たあと、というか、いわゆる人生そのもの、みたいなものではないかと。
この、プロレス的なカンガエカタ、もうちょっと練り直して、なんとかならないかなと思う次第である。