マキタカオライフ

It's Life and Life Only

人間関係 距離と立場6

この表題も6回目になり、はっきり言って支離滅裂の感があるが、続ける。
個人ではなく、団体について。
市町村とか都道府県とか国とか、学校とか会社とか。その他いろいろの。

よく、アメリカはこう、だとか、日本はこう、とか、なに市はこう、とかなんとか党はこう、だとかいう言い方をする。
なになに新聞は、とか、どこどこ(会社名)とか。
こういうとき、実は、その話し手の、その対象についての単なる印象である場合が多い。
その対象の性質、性格を表しているのではなく。
だから、例えばアメリカはこう、という場合、ふたりいればふたつの、5人いれば5つの意見があると考えてよい。

また、たとえば、日本はこうだ、とか言ったとき、その「日本」はいったいなんのことを言っているのか、実はよくわかっていない場合が多い。国土のこと、政府のこと、言語や習慣のこと、武士道のこと、美意識のこと、あるいは、、。
それでも、日本はこうだ、いや違う、こうだ、などと言っている。
違う例でいうと、「あなたは神を信じますか」というのが昔よくあったが、信じるか信じないかよりも、あなたの言うその神ってなんですのん、ということである。こういうときもつい、「信じません」とか「宗教はちょっと」とか言ってしまうのである。

で、なにが言いたいのかというと、ひとつは、なにについてもそうなのだが、とくに団体や組織を論じるとき、その本質を表すことはあまりないだろうということ。
もうひとつは、どんな言葉でもそうなのだが、とくに団体、組織について考えたときに、その概念は個々によって様々であり、ばらばらであり、実はよくわかっていないかも、ということ。
つまり、主語の定義がまず曖昧であり、述語部分もじつは曖昧であるということ。
曖昧×曖昧イコールすごくアバウトということである。

そして、団体、組織というのは、それなりの人数で形成されるが、その行き先、方針は、おそらく、ひとりかもうひとりかで、決められる。自ずとそうなる。
というのは、例えばいろんなことを決める部署がたくさんあったとして、その決定はそれぞれの長がとり仕切るが、とりまとめていくと、最終的にはその国の実質的な長(表面的な長ではなく)がすべてをとり仕切ることになる。ひとりめはその長で、ふたりめというのははその長が信頼する相棒である。
その方針が複数にばらけると、その組織もうまくいかない、か、分裂する。
だから、例えばなになに党はこうだ、とか言う場合、うまくいっている場合はだいたいその本質と印象はそこそこ近いだろうが、ばらけている場合は、なになに党はこうだ、とは言えない。なになに党の定義が曖昧だから。

ここで、「国」について話を進めるが、この曖昧な定義の「国」にも、曖昧にボーダーラインがあって、それも、おそらく、ひとりかふたりの意見、感覚で定められる。
ただ、その国がばらけている場合や、その実質的な長が見えない場合、方針も、ボーダーラインも、曖昧かつ不明瞭なものになってしまう。
なんだかよくわからないうちに、大声、お金、そして暴力を行使するひとりかふたりの意思の方向に進んでいったりする。

前にいくつか確認したように、実は、大声もお金も暴力も、そんなに恐れるべきものではない。
それらは、生前だけのもので、人間は遅かれ早かれ、死ぬ。
ただ、痛いとか苦しいとか悲しいとかいうのが、つらい。問題はここにある。これもここで確認しておく。

で、もう一度、「国」とはなんだろう、あるいは他の団体、組織にもあてはまるが、おそらく、それは、「存在」ではなく「取り決め」「概念」「定義」というものか。
だから、国というものは、じつは無い。国という概念だけがある。

ますます、支離滅裂である。