マキタカオ ライフ

日々の考察と記録 It's Life, And Life Only

再:たばこについての考察その1

5年前に書いた文章が、いま見直したらリンクが切れていたので、以下、再録する。

はじめに

街中の歩道で、歩きたばこの人がいる。けむりがこちらにただよってくる。僕のナイロンのジャケットが焦げそうであぶない。

いちおう分煙されている食堂がある。禁煙席の背中合わせに喫煙席だ。燻製になってしまいそうだ。眉をひそめる僕がいる。この店にはもう来ることはないだろう。

つい4年前は、反対側の立場だった僕。外なんだからいいじゃないか。喫煙席だから文句いわれる筋合いはない。ポイ捨ては良くないよ、でもたばこはいいんだよ、自然に帰るから。

いまはたばこを吸わない。一度吸わなくなって、また吸いだしてそして、吸わなくなった。一度目は翌日から吸わないひとになった。5年ぐらい吸わなかった。二度目は吸わないひとになるのに一年かかった。

試行錯誤、実験、考察、などの一年。たばこについていろんな角度から考えた。

「禁煙セラピー」という有名な本があるが、僕にはあまり効果がなかった。

自分で納得したから、たばこを吸わない僕がいる。食事中以外は、けむりもそんなにいやではない。普通に、たばこを吸わないという状態。いわゆる「禁煙」というのではなく。

僕のごく個人的な考察が僕自身に効果があったように、だれか他のひとにも役にたてば幸いです。吸う吸わないの是非ではなく、いちど本当に納得して、吸うならおいしく吸う、吸わないなら力をいれずにただ吸わない、のような感じで、選択していただければ良いと思います。

たばこについての考察

マキタカオ 2007.3.10 all rights reserved copyright MakiTakao

たばことはなにか

たばこってなんだろう。思いつくのを挙げてみよう。

まず嗜好品。コーヒー、紅茶、お茶、などと並ぶ。一服するって言う。

未成年は喫煙を法律で禁じられている。大人の嗜好品。ここはコーヒーなどとは違う点。

休憩のときにはお菓子を食べたりもする。チョコレート、甘いもの、などつい手が出る口が出るもんだが、たばこは食べ物ではない。そして飲み物でもない。

「けむり」を吸い込んで、はき出す。

線香、焚き火、花火などもけむりが出るが吸い込みはしない。

香りを楽しむ、見て楽しむなど。

さまざまな病気のもとになるので、自己責任で、のようなことが、たばこのパッケージには書いてある。体に悪いのか。間違って食べてしまったら死んでしまうこともあるらしい。毒か。猛毒か。毒も少量なら薬なのか。

禁煙とか、止めるとか言う。まあコーヒーを飲むのをやめてみようなどと言うこともあるが、たばこのときほど禁じるとか失敗したとかそこまでは言わない。

やめたいけどやめられなくて、などと言う。やめたいけどやめられないってどういうことだろう、なぜそんなにいけないことをしてしまうのだろうか。習慣性。依存。

なんか最近は病院で治療とかいうふうに言うらしい。健康保険も使えることがあるらしい。たばこを吸うこと自体が病気ということなのか。

たばこというのはどうやら、たばことしかいいようのないもののようだ。

ほかのなにかに仲間ではなく、たばこはたばこであるということだ。

さらに、たばことはなにか、について掘り下げて考えていくことにする。

ここで言うたばこというのは、いわゆるたばこ一般という意味あいで、ほとんどの場合そこらへんで売っている紙巻きたばこのことを差す。パイプたばこや葉巻なども含むといえば含むが、ほとんど今回の考察の対象ではない。

たばこを吸い始めるきっかけ

そもそもなぜたばこを吸い始めるのか。

食べ物でも飲み物でもないので、さあどうぞ、と家庭の食卓にあがることはない。

好き嫌いせずに食べ(吸い)なさいなどと言われることもない。宴会の場でまあ一杯ぐらいと無理に勧められることもない。

はじめて喫煙するとき、ほんとにはじめての喫煙のとき、美味しいとかうまいとか気持ちいいとか感じるひとは、おそらくひとりもいないだろう。

異物が体内に入った違和感、吐き気、何度うがいをしてもとれることのないへんな感じ、そんなとこだろうと思う。

そこで二度とたばこに手を(口を)つけなければ、別段どうということはなく、単にあんなまずいものとはつきあっていくことはないだろう。

しかし、二本目、三本目と続けて摂取するうちに、肺を、体を満たすようなけむりの感覚が心地よいような気がしてくる。一箱いくと、次の一箱にいくのはほぼ間違いない。喫煙習慣の確定である。

まず、一本目に手をつけるのはなぜだろう、そして、さらに二本目以降をつづけていくのはいったいなぜだろう。

はじめてたばこを吸い始めたのは、何歳のときだったろうか。

二十歳の誕生日に、やっとたばこが吸える、といってたばことライターを購入し、火をつけて、ああうまいなどという人間はこの世界にひとりもいないと、僕は断言する。ぜったいいない。そういうものではない。

もちろん二十歳を過ぎてから、たばこでも吸ってみるかと吸い始めるひとはいるだろう。

しかし、ほとんどの喫煙者は未成年のうちに最初の一本をはじめていると僕は想像する。なんの統計もとっていないし、そんな統計はあるかどうかも知らないが、ほとんど、そうだと思う。

荒っぽくひとことで言ってしまう。

「ワル」。

悪(わる)、不良、ということ。

そこには、かっこよさ、おとなっぽさなどを含む。

禁じられているからこそ感じることの出来るスリル、

一目でわかる不良っぽさ。ライターも合わせても数百円で体験できる手軽さ。

まあ、考察というまでもない、シンプルなことである。

「不良」についての考察は別のところでやろうと思っているのでここにはあまり書かないことにする。

たばこの魅力

まあ、「ワル」というのに尽きるのだが、もう少し掘り下げて。

火を扱うこと。どんな場所でも火を扱うワイルドさ。火とはワイルドである。野性的。動物は火を怖がる。人間も本能的には火を怖がるだろうが、そこを乗り越えて火を扱うことの快感、征服感。単に火を見つめることの快感。

けむり。火に通じるところがある。けむりを扱うこと、しかも吸入してしまう物理的な快感。

はく息がけむりとして目に見えること、たばこの先から立ちのぼるけむりの青い色(清志郎)と模様。

香り。火をつけずに嗅ぐ、独特の香り、火をつけると変化してしまう香り、口から鼻に抜けていくときのまた違う香り。

道具。主にライター。重さ、音、炎の具合、ブランド。

灰皿、ケース。パイプ、カッターなど。趣味、こだわり。

かっこよさへの憧れ。身近なひと、あるいは有名人で。

仕草、振る舞い。生活の一部。

長所、効能、効果として考えられること。

リラックス効果。火を見つめる、けむりを見つめること。

「間」。たばこを吸うという行為、点火からもみ消すまでの数分間、そのためだけの特別な時間。思考、ひらめき、落ち着き。

深呼吸。けむりも吸い込んでいるので、単にいいとも言いにくいが、深呼吸自体あまりしないひとたちにとってはいいのかもしれない。

たばことは、「文化」である、と言えるだろう。

たばこの短所

ここではあまり取り上げないことにする。

健康に良いとか悪いとかの論議について、単純に何がいいとか悪いとかということはありえないと思っている。ひとそれぞれだろうし、摂取の量、タイミングなどにもよる。言い出すときりがないし、そんな議論には興味がない。

臭い(くさい)、火があぶない、とか、食事にあわないとかはいうまでもない。

たばこの習慣性と依存

やめたいのにやめられない。

そのまえになぜやめたいのかという問題もあるが、それは後にまわす。

やめられない理由はこれも荒っぽく言って、ひとつ、

ニコチンの習慣性である。

以下、すこし掘り下げる。

まず、喫煙によって、平常とかけはなれた精神的、肉体的高揚や麻痺を認めることはない。法律で禁じられているドラッグ類やアルコールと大きくちがうところだ。

飲酒しての車の運転は禁じられていて、喫煙しての運転はなにも関係ないことから、あきらかである。

高揚感あるいは麻痺感のないドラッグ(といってしまうが)になんの価値があるのだろうか。

食べ物、飲み物であれば、美味しいからというだけで価値があるといえるが、吸入したけむり自体美味しいものなのか。

少なくとも僕はそうは感じなかった。美味しくないのに喫煙習慣を続けている。

ニコチンがひとの精神と肉体におよぼす影響は、極めて強力な「不足感」である。

空腹状態を、もうひとつ作り出すと言えばいいか。食物(胃)の空腹とは別に、新しく、けむり(肺、脳、その他)の空腹を感じるようになってしまう。

たばこ一箱で空腹を感じる臓器が追加インストールされたって感じか。

不足を満たすという行為は、心の不足、気持ちの不足、生活の不足などあらゆる他の不足を満たす代用となる、というか満たしているような気がする、一時的な慰めになる。ストレス社会において、これは効用のひとつであるともいえる。

禁煙というのは文字通り、けむりを禁ずるのだが、やめるとすぐ、ニコチン不足感がやってくる。これは、やりすごしても、乗り越えたと思っても何度でもやってくる。気持ち、思考、意思よりまえに、肉体にフィジカル的に強烈にやってくる。その不足感が意識に移行するとこんどは、たばこのことばかり考えている、たばこのことしか考えられない自分に気づく。

禁煙後、半日、12時間ぶりに吸ってしまったとする。

このときのニコチンが体中に染みわたる感覚というのは、なかなか得難いものである。単なる充足感を超えた感覚、快感といってもいいか。脳内、手足の血管、にニコチンがまわるのが分かる。毎回これならそれはそれでいいのだが。

しかし、つぎの一本、これがもうぜんぜん普通というか、ただ吸って吐いてというだけ。喫煙とは結局、不足、充足の繰り返しに過ぎないのかと自問したりする。

この不足感も、喫煙習慣がなければ、そもそも存在したいものなのに、とか。

そしてまた、5時間やめたり、半日やめたり、2時間やめたり、そんなことを何日も何ヶ月も繰り返したり、僕はしていた。

最終的に僕がたばこを吸わずにいれるようになったのは、おそらく強い意志の力ではなく、たばこというものについての理解だったように思う。

ニコチンは三日で90何パーセントが抜けるという説がある。その3日までがなかなかいかなかった。買っては捨てたたばこが何十箱あっただろうか。

一日やめられたら、三日やめられた。

二週間たって、買って吸ってみた。はじめて吸うたばこのあの感覚、もうこれで吸わなくていいなとそのとき思えた。

たばこに関しての提案

箇条書きにしていく。

分煙。中途半端な分煙はやめるべきである。

入店時に分かるように表示すべき。

禁煙の店か、喫煙の店か、完全分煙か、である。

飲み中心の店なら、喫煙でしょうがないだろうとか、食べ中心なら完全分煙でないと、とか、消費者も判断できるだろう。喫茶も完全住み分けみたいにどちらかを主張すればいいのではないか。

値上げすればいいのではないか。

味もわからず次から次へのチェーンスモークは、単にもったいない。食べ物と一緒で腹をへらしてから食うほうが同じ物でも美味しく味わえる。一本いっぽんに価値を。たばこ文化の底上げ。そのために値上げ。

パッケージ、文言。

セブンスターぐらいまでは、たばこのパッケージデザインはシンプルでかっこよかった。

デザインで、とか名前でとかで選んだりしていた。マイルドセブンライトとかからなんかねえ。

そして最近のあの矛盾した文言はなんだ。売るなら売る、売らないなら売らない、バカじゃないんだから、箱毎にでかい字でいちいち書かなくてもいいだろう。デザインもぶちこわしだ。喫煙者はリスクは自分で背負っているのだ。販売機に貼っとけばそれでいい。あとテレビも雑誌もたばこ自体の宣伝は不要だと思う。それも販売機に貼っとけばそれでいい。

種類多すぎ。

そんなにいらないだろう。

パッケージもさっき言ったように、かっこよくない。

もっとビシッとやってくれ。

歩きたばこの禁止。

歩きながら吸ってもあんまり美味しくないと思う。

リラックスのために吸おう。

さいごに

たばこは文化のひとつである。

体にいいとか悪いとかではなく、あまり美味しいと思っていないのに喫煙しているひとはやめればいいと思うし、美味しいと思って吸っているひと、たばこがほんとうに好きなひとは、吸えばいいと思う。

美味しくいただけば、体にも心にも良いだろうし、そうでなければ逆である。

ニコチンの性質上、吸うか吸わないかどちらかしかない。

たばことのつきあいを、個人個人がよく考えて納得のうえで選んでいってほしいと思います。

2007.03.10

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