思ったこと 生きているとかそういうこと。
水に言葉をかけるとその言葉によって水の結晶の形がそれぞれ変化するという写真集があった。
それに対して、水に言葉がわかるはずかないのでそんなことはありえないというどっかの大学教授の本があった。
あとのほうの本は新聞の書評で見たたけなので詳しいことはわからないが、このことについていろいろと思ったことがあるので書いてみる。
いままでいろんな書物などで得たことを、僕自身のなかでまとめたことを前提に進めていくので、脈絡がない文章になるかもしれないが、とりあえずメモ書きのようなものとして。
言葉は、単にその意味をつたえるだけではなく、音として発せられた場合は空中を伝わる振動、バイブレーションである。波動とも言う。意味、感情を込めて発せられた言葉はその意味、感情を伝える。また、単に意味も感情もない言葉でも、その音によって効果が伝わることもある。言霊とか、マントラとか、お経とか。
ということは、言葉の波動は、言語の違いを超えているかもしれない。
水が言葉をわかるかどうかということは、水が言葉を理解する脳をもっているかどうかということではなく、水が生きているかどうかということかと思うのだが、そこで、果たして生きているとはどういうことだろうか。
動いていること、動けること、成長していること。
動物は分かりやすい。
植物はどうだろう。成長している。
切った木の枝はどうだろう。どっちだろう。
人間の、爪はどうだろう。毛はどうだろう。
切った爪は、切った毛は。
血は生きているのだろうか。血管を流れている血は。
傷口から出た血はどうなんだろうか。
物質は、原子でできているということである。
その原子は原子核と電子でできていて、
ということは、動物も植物も、石も土も水も、組み合わせや構造が違うだけで、
元はいっしょということなのだろうか。
そしてなんと、原子というのは、原子核の周りをいくつかの電子が、
ぐるぐると回っているというではないか。
それは太陽系とか銀河系とかいう、宇宙に似ているではないか。
しかも動いているではないか。
原子は宇宙であり、宇宙は原子であり、最大は最小であり、
無限の広がりはなんと、砂よりも小さい。
地球は生きている。宇宙も生きている。
石も土も、そして水も、生きている。
人間も動物も、爪も毛も、
血も汗も生きているということではないのか。
君が彼であり、かつ君が僕であるように、ぼくは彼である。
そして僕はせいうちである。ということか。
木は毛で、石は爪で、砂は垢で、
川は血管で、そして、
水は血である。
僕は地球であり、宇宙であり、砂つぶでもある。
大きさ、広さという概念は、
人間が決めた尺度に過ぎないのであって、
大きさ、広さなどと言うものは「ない」のかも。
何千光年とか何万光年とかいう宇宙の広さも
一単位としては、人間一人とか、砂粒一粒といっしょなのかも。
宇宙一つとかいうふうに。
地球も、かゆいところを掻いたり、
蚊がきたら、たたいたりするんだろう。
そして宇宙も。
イージー、ナチュラル、リラックス、ニュートラル、ハッピネス。