自他ともに認める
ゴッホの絵はゴッホが死んだあとになって初めて値がついたという。ひまわり3億円とかいうのもあった。
世界中にひとつしかなくて、おおぜいのひとが欲しがると、需要と供給のバランスから高い値がつく。誰も欲しがるひとかいないと値段はつかない。まあ値段をいくらに設定してもいいんだが、誰も買わない。
ここで2つ分かったことがある。
売り手は、売れる売れないを気にしないのなら、どんな値段をつけても構わないのだということ。
0円でも3億円でも、ひまわりの絵はなにひとつ変わっていないということ。
自分は認めても他人が認めていない場合、あるいは自分が認める認めないに関わらず、他人によって値段がつけられる場合。
「自他ともに認める」というフレーズがあるが、ものの値段もそうなのだか、自分がなにものであるかというのもおそらく似たようなことなんだろう。
その、自分がなにものかというのが、まわりの他人(自分以外の人間)によって決まってしまうことが割によくあるし、逆に自分自身の自己評価が他人にはまったく通用しないこともよくある。そのへんのバランス感が大事なのだろうか、ひとはいつもそういうところで悩んだり迷ったりするのだろう。
しかしここではっきりしておきたいのは、まわりがなにを言おうがなんと思おうが、ひまわりはひまわりであるということだ。
このあたりをいちおうふまえた上でだが、「俺、三億円」っていうのもありではないかなどと思ったりした次第である。